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2021. 11. 10  

『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳)

 ほぼ全編、音読した。
 引っ掛かりのまったくない、美しい日本語だった。百歳まで学び翻訳を続けたとしても、自分にこんな文章が書けるとは思えない。

 音読するなかで――音読したからこそ――考えさせられたことが、いくつかあった。
 AF (Artificial Friend) クララと人間との対話の中でほのめかされる、AFと人間の関係だ。
 クララは、だれに対しても終始丁寧で、自分より「上」の存在を相手にするような喋り方をする。ジョジ-(彼女をAFとした人間の少女)やリック(その幼なじみの少年)との関係が深まっても、彼らに対する態度は変わらない。
 だが、冒頭の店内の場面では、他のAFたちとぞんざいな口をきき合っているので、これはAFのデフォルトではなく、相手が人間の場合はそう対応するようプログラムされているのだと思う。クララの学習が進んでも、その一線が超えられることはない。
 そして、クララの口調は、丁寧なだけでなくどこか無機質だ。ときどき、いわゆる「翻訳調」とでもいうような表現も混じる(そして土屋さんはすごいと改めて思う)。
 対する人間の方も、AFは対等な存在とは考えていないように思える。「(人工)友人と呼ばれる存在なのだから(人間と)同等の存在として扱おう」という姿勢を見せつつ、心の奥には「人間とはちがう」という本音があり、それがふとした拍子に口調や態度に現れる――そんな感じだ。長い期間をクララと過ごしたジョジ-でさえ、物置に「引退」したクララのために代わりの(もっと「もと友人」にふさわしい)部屋を与えてやることはせず、大学に旅立つときには、当然のように「今度戻るとき、もういないかもしれないのね」と言う。
 逆に、ジョジ-の父、科学者のカパルディさん、ジョジ-の家の家政婦メラニア、最初にクララがいた店の店長さんは、最初からAFを人間とは明確に異なるものと位置づけ接しているようで、クララに対する態度(クララの扱い)がぶれることはない。あからさまにモノ扱いするメラニアも、いっそ清々しい。

 ところで、クララの外見はどんな感じなのだろう? 店内にいるクララに、ジョジ-が「あなたはフランス人? なんとなくフランスっぽいけど(中略)髪をそんなふうに、こざっぱりとショートにして」と話しかける場面があるので、精巧に人間に似せ、一人ひとり個性のある風貌にしつつ、人間ではないことが明確に分かる外見なのかなと、勝手に想像している(他に、ハッキリと外見について書かれた箇所があったのかもしれないけれど、見つけられず)。

 閑話休題。
 太陽光からエネルギーを得ているらしいクララは、太陽に対し、崇拝といってもよい、ともすれば原始的とも言えるような気持ちを抱いている。AI (Artificial intelligence) と崇拝という二つの言葉を並べるとまるでなじまない感じがするが、クララが(自分の製造過程や生命――適当な言葉を思いつかないのでとりあえず「生命」としておく――維持方法に関する知識も含め)もてる知識を総動員した結果、このような結論に至るのは自然なことのようにも思える。クララは、向上処置(というたぶん遺伝子操作)がうまくいかず健康を損ねているジョジ-も、太陽が救ってくれるのではないかと考え、全身全霊で太陽に「お願い」する。
 そして、実際、クララの祈りが通じ、太陽光がジョジ-に「特別な栄養」を与え、健康にしてくれた(ように見える)場面があるのだが、果たしてこれは奇跡なのだろうか?

 この物語は、全編クララの目をとおして語られる。そのせいか、かなり不安定で、謎を残したままのものごとも多い(たとえば、クララが汚染をまき散らすものと考える「クーティングズ・マシン」も、いったいどんなものなのかよく分からないままだ)。
 ここに描かれているのは、クララの目をとおして得られる/彼女が考える「真実」だ。「事実」ではないかもしれない。だから、ジョジ-が健康を取り戻したのは、太陽が特別な栄養を与えてくれたことによるのかもしれないし、偶然の一致だったのかもしれない。

 けれど、(おそらく最先端の)医学でも取り戻すことのできなかったジョジ-の健康を、(奇跡ではなくとも)太陽光という自然の恵み、そしてクララの「信じる心」が少しずつ周りを動かして取り戻したのだとしたら、テクノロジーに対するこれ以上のアンチテーゼはないのではないかという気がする。

 クララは、AIとして学習する。周りを観察し自分の知識として取り込み「成長する」。では、それを繰り返すことで、彼女は人間に――一番の観察対象であるジョジ-に――かぎりなく近づくことができるのだろうか? ともかく、それがジョジ-の母親が、娘が亡くなった場合にクララに求めたことだった。
 人間の頭の中は複雑だ。論理的思考の中に、冒頭でも述べた本音や偏見が混じり、相反する感情が同時に絡んできたりもする。それが行動にも影響する。他人との関係に化学反応を起こす。他人の頭の中に予測できないなにかを残すことだってあるだろう。それらすべてをAIが「学びきる」ことはできるのか。

 以前、機械翻訳セミナーで、開発に携われられた方から、NMTが訳文を生成するプロセスは「ブラックボックスのよう(なにが起っているか正確には分からない)」と伺ったことがあるが、人間の思考(の総体)こそ、ブラックボックスなのではないかという気がする。それは、(とにかく今はまだ)AIがとうてい学び得ないものだ――少なくとも、私はそう思う。聡明なクララにもそれが分かったのではないか。ラスト近く、彼女は「(特別な何かは)ジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました」と言っているが、これが(現時点で)人とAIを厳然として分けるものではないかと思う。そして、人間ではなくAIにそう言わせているのだ。なんという皮肉だろう。

 
 ――という感じで、AI寄りにいろいろ考えてしまったが、最後にひと言で感想をまとめると、読み終えて、私は名状しがたい哀しみに満たされた。AFのクララがあまりにも純粋で献身的だということも、その理由の一つかもしれない。それをつくりだしたものは人間なのだ。人間はなんて傲慢になり得るのだろう。深く考えることなく行きすぎた(行きすぎようとしている)テクノロジーへの警鐘とも考えられなくは、ない、と思う。

参考:
「翻訳者・土屋政雄に聞く、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの言葉選びと創作姿勢」
https://realsound.jp/book/2021/05/post-755233.html
2021. 07. 21  

『翻訳教室 はじめの一歩』(鴻巣友希子、筑摩文庫)
 (2012年に出版されたものに加筆・修正を加えて文庫化したとのことです)

 この本は、翻訳家の鴻巣友希子さんが、母校の小学校の六年生の生徒とともに絵本の翻訳にチャレンジしたテレビ番組の内容を書籍化したもの。

 実際に翻訳をはじめる前に、鴻巣さんは、生徒たちに「世田谷線の電車になりきって文章を書く」という宿題を出すのですが、子どもたちが書いてきた文章がまず素晴らしい。六年生のころの自分にこんな自由な発想はできなかったろうなあと、しみじみ思いました。
 その宿題を評しながら、話は、客観的な描写と主観的な描写、視点、共感といった翻訳に必要な要素へ。実際に文章を書いてきたので、生徒たちも鴻巣さんの話が理解しやすかったのではないかと思います。そこから、I love youを例にとり「翻訳とはどういうものか」という話へ。「翻訳というのは『英文和訳』をこなれた日本語に書きなおしたものではない」という鴻巣さんの言葉は、私のような現役の翻訳者にも重く響きました。

 「翻訳はどういうものか」がちょっと分かってきたところで、いよいよ本番。それぞれ英和辞書を一冊与えられ、グループに別れて“The Missing Piece”という絵本の翻訳に挑戦します(鴻巣さんが各グループをまわり、必要に応じて助言を与えます)。子どもたちは、期せずして、「辞書の言葉をそのまま当てはめず、ぴったりの言葉を探す」「英和辞典を引いても分からなければ国語辞典も引いてみる」など、翻訳者にとって大切なことを学びます。子どもたちの訳文では、ごく自然に主語が省略されていたりして、その討論の様子を聞いて(読んで)いると、学ぶほどに仕事をするほどに、英語の構文にとらわれるようになってしまっていたかも、と思わされました。

 その後、各グループの訳文が発表されます。子どもたちの訳文を読みながら、むずかしい英文の解釈だけが勉強ではないと改めて思いました。簡単な文章の翻訳、とてもむずかしい。
 鴻巣さんの講評の中では、「訳文は原文と深くかみあって初めてそこから離れることができます」という言葉が心に残りました。さきの「こなれた日本語に書きなおしたものではない」と通じるものがあると感じます。

 翻訳に挑戦した生徒たちは、後日、“The Missing Piece”について、インターナショナルスクールの生徒とディスカッションします。そこでは“it”というあいまいな主語が話題になったり、「文章の形は違うけどその方が意味がよく伝わる」という、(実は超)深い意見がでたり。

 まとめの話のあと、鴻巣さんから生徒たちに最後の宿題がでます。それは、自分にとってのmissing pieceはなにかを考えることと、日本語のタイトルを考えること。“The Missing Piece”は本書の中であらすじを読んだだけですが、転がるマルは人生で、missing pieceは人生のそのときどきで追い求める“なにか”なのかなあと感じました。求めるものがずっと同じとはかぎらないから、ぴったり嵌まったと思っても外してしまうこともあるし、外したことで、新しく見えてくるものもあるかもしれない――と、そんな感じかな。タイトルは「さがしてる」です。
 子どもたちの感想もさまざまでしたが、この宿題には正答はないのだろうと思います。”自分にとってのmissing piece”というのは、どのようにも解釈できるものだから。その意味で、翻訳と似ているなとも思います。もっとも、翻訳は、どんなふうに解釈してもよいものではなく、原文に即した著者の意図を汲んだ解釈でなければなりませんが。とことん突き詰めた上での解釈と翻訳を、鴻巣さんは翻訳者が「引き受ける」と表現なさっていたと思います。

 Twitterでも引用しましたが、鴻巣さんが翻訳講座で学生に贈ったという言葉を、最後にこちらでも紹介しておきます。
 つい順番をまちがってしまいそうになりますが、やはり、原文解釈あってこその日本語訳文だと私も思うので(とはいえ、ついつい日本語の中だけで完結してしまいそうになるのですが)。
 文芸翻訳の講座だと思いますが、翻訳全般に当てはまる“基本”ではないかと思います。Twitterではごく一部を抜粋しましたが、こちらではもう少し長めに紹介します(PP. 210-211)

****(引用ここから)****

 この講座は「きれいな訳文」「こなれた訳文」を書くことを目的とした講座ではありません。コースの最初に言ったとおり「的確に読む」ことが第一目標です。(中略)「的確な読解ができれば、不要な主語や代名詞は自然と落ちていく」「その結果、読みやすい訳文になる」ということです。また、本講座は“てにをは”を少し変えただけで、訳文が読みやすくなる!」といったコツの伝授をするものではなく、「的確に読めていれば、“てにをは”を間違えることはない」のです。逆にいえば、「訳文の“てにをは”がブレている」のは、解釈にあいまいな部分、あるいは誤読が潜んでいる徴候です。この順番を決して間違えないでください。訳文の“自然さ”というのは結果として出てくるもので、“自然さ””読みやすさ”を目指して進まないでください。
2021. 03. 29  

『三行で撃つ』(近藤康太郎、CCCメディアハウス)

 著者は、新聞社編集委員・評論家・百姓・猟師・私塾々長など、さまざまな肩書きを持つ。
 この方が新聞に不定期連載されていた百姓・猟師エッセイを、私は欠かさず読んでいた。大好きな文章かと問われると正直「……ビミョー」なのだけど、面白い。目に入るとつい読んでしまう。そしてどこかで「撃たれて」しまう。撃ってくれるのを期待して、結構ウキウキしながら読んでいたような気もする。そういう方の書かれた文章術の本だ。
 
 プロのライターから趣味で文章を書く人まで、とにかく「自分で書きたい人」向けの本で、だから「表現すること」が中心になる。自分はなにを書きたいのか、それをどう表現したいのか。「自分」というのは、翻訳では表に出してはいけないものだと私は思う。翻訳者が書くのは、あくまでも書き手が言っていること、言いたいこと。というわけで、本書をそのまま翻訳に当てはめられないのは当然なのだけれど、「結局、一緒?」と思える箇所もあったりする。だからかもしれない。この本を読みながら、私はずっと「自分で書くことと翻訳することはどう違うのか」を考えていた。なにが同じでなにが違うのか――どんなに稚拙でもそれを自分で言葉にしておかないと、「面白かった」「いい内容の本だった」「翻訳にも言えるよね」だけで終わってしまうような気がしたのだ。いや、実際面白かったんですけどね。

 書くことと翻訳することの同じところは、どちらも文章にする直前は、シーンを頭の中に思い描いているということ(「絵」という言葉を使われる方も多いが、私自身はもう少し動きのある場面を思い浮かべて書いたり訳したりしていることが多い気がするので、「シーン」とした)。

 では違いはなにか。
 大きな違いは、やはり原文があるかないかということだと思う。原文という制約を課された状態で文章を書かなければならない(自分の考えも「原文」と言えなくもないが、翻訳の場合と違って、表現を変えたり書く順番を入れ替えたりアプローチから変えてみたりと、制約そのものをなくす方向での変更が可能ではないかと思う――文書の種類によって、それができない場合もあるかもしれないけれど)。この“制約を課された状態”は、親指を骨折した状態というのが近いんじゃないかと思う。見たところたいしたケガではない。周りからはあまり心配も同情もしてもらえず、たいした支障なく日々の生活が送れるものとみなされる。けれど、右手の親指が使えないと日常生活は驚くほど不自由だ。その中でいかに生活しやすくしていくか(手の使い方を変えたり、用具を使用したり、別の筋肉を鍛えたり)というのが、制約のある中でいかに日本語らしい文章を書いていくかというのとちょっと似ているんじゃないかと思う(この“右手親指骨折説”については、まだ思いつきの域を出ないので、今日はこれ以上深追いはしない)。

 自分で書くことと翻訳することのあいだにはそういう違いがあるということを念頭に置いて、『三行で撃つ』を読んでみる。

 読み終わっての全体的な感想は、とにかく情報量がすごかったということ。私は――少なくともあとでブログ記事にしようと思う本については――そのとき考えたことやフと頭に浮かんだことをメモした紙片を挟みながら読んでいく派なのだけど、『三行で撃つ』では、この紙片の数がとんでもないことになってしまった。

 翻訳でもそうだな、と思ったことも多い。たとえば「すべる文章」(第3発)中の「摩擦係数を減らせ」。本書では、結論に至るまでに読み手に非常な努力を強いる「摩擦係数の高い文章、すべらない文章」は書くなと述べておられる。私はまだまだ不要な摩擦を訳文に持ち込んでしまいがちなので、この言葉は胸に痛かった。原文の凹凸や強弱に即した摩擦は訳文でも必要だと思うけれど、それ以外は「すべる文章」にする――翻訳でも大事だと思う。また、スピード感(第16発)、リズム感(第17発)、グルーヴ感(第18発)の「3感」も、個人的には翻訳するときに意識したいと思った点だ(「グルーヴ感」は自分の中でまだよく掴めていないので、正直言うとビミョー)。もちろん、原文に則った上で、だけれど。そして、どの場合も、「こうするとよい」という方法の部分をそのまま翻訳にも当てはめることはできない。当然ながら「自分で一から文章を書く」という前提の技法だからだ。
 第19発「意見や助言」では、「自分は世界で一番文章が下手」という意識を忘れず「耳はいつでも開けて」意見や助言を聞くようにと“助言”される。これはそのまま翻訳にも当てはまるかもしれない。「下手だ」意識を忘れないでいることは、学ぼうという気持ちの原動力になる。と同時に、プロとして訳文をつくるのだという矜恃も失わないようにしなければならない。なかなかむずかしい。

 書いているうちに、『三行で撃つ』に書かれている内容と翻訳することで(一番)被っているのは、「言葉にする」ということに対する姿勢なのかなと思えてきた。だから納得できる箇所も多いと感じたのかもしれない。
 最終章(第7章)「生まれたからには生きてみる」は、「書く」ということの本質の考察で、自分を見つめ直すことを求め、ライターになるという覚悟を問うている(少なくとも私にはそんなふうに思えた)。翻訳者として、同じように自分に問いかけることも可能だと思う。なぜ書くのか(なぜ翻訳するのか)。

 * ただし、最後に「いい文章とは(中略)誤読の種を孕む文章のことだ」と書かれている部分もあり、最終章の著者の熱量にそのまま呑み込まれてしまうのは危険だなとも思う。いい文章を「再読できる文章」とも言い換えておられたが、少なくとも私が日々扱う文書のめざすところは、再読の必要がない文章であり、再読しても瑕疵が見つからないレベルの訳文であろうと思っている。あくまでも「めざすところ」ではあるけれど。

 本書では、常体・敬体を書き分けた、とある。確かに、両方の文体が混在しているのだけれど、第7章はすべて常体でぐいぐい押してくる。私の個人的な感覚では、敬体は「私はこう考えているがどうでしょう」と相手(読者)に寄り添っていく文章、対して常体は、「私はこう考える」と言い切る少し自分寄りの文章のような印象がある。そう考えると、読者に伝えたい「書く姿勢」の部分は第7章に凝縮されているのかなと思う。まあ、そこは想像ですが。“いっちゃってる”感のようなものは感じました。



『三行で撃つ』については、Budkeyeさんが、ご自身のブログで深い考察をなさっています。
http://buckeye.way-nifty.com/translator/2021/02/post-b0e4e7.html

(こんなのを書かれたあとに『三行で撃つ』について書くのは恥ずかしいのですが、初読時から「記事にしよう」と思っていましたので、エイヤッと掲載)
2021. 03. 05  

 意外に翻訳者は変わらないのだな、というのが正直な感想。
 もちろん、翻訳者を取り巻く状況は変わり、翻訳のやり方(手書きからパソコンへ、数冊の紙辞書から電子辞書やウェブ辞書の串刺し検索へ、など)も大きく変わったけれど、翻訳に対する考え方の根っこの部分は変わっていないような気がします。


 主人公は、駆け出し翻訳者の青年。翻訳家で作家でもある常盤新平さんの自伝的短編集です。
 舞台は昭和30年代前半の東京。「僕」は、出版社に勤めながら、夜中や週末にミステリやハードボイルドの翻訳をしています(当時もよほどの売れっ子でなければ、翻訳だけで食べていくのは難しかったようです)。どの短編にも、先輩や同輩の翻訳家が登場し、彼らを軸に、「僕」[と恋人(のち妻)の沙知]の生活が描かれます。登場する翻訳家のおおかたは仮名ですが、訳書のタイトルはホンモノなので、分かる人には「あの人のことだな」とすぐに分かるはず。中には、植草甚一、都筑道夫、福島正実のように実名で登場する方々もおられます。


 読後感は、ありきたりですが、「ALWAYS 三丁目の夕日」(映画)を観たあとのような感じ。これを、古き良き時代(本当に「古き良き」時代だったのかという疑問もあるかと思いますが、あの映画に関していえば、そんな風に描かれているような気がします)への郷愁、と言うんでしょうか。
 少なくとも、常盤さんは、そんな気持ちを抱いて青春時代を振り返っておられるようです。
 各短編が発表されたのは、1990年から1992年にかけて。常盤さんは還暦を少し過ぎたくらいの年齢でしょうか。30年ほど前の自分を振り返る感じですかね。老境に入り、身体の衰えを自覚しはじめた。親世代ではなく自分の死も視野の端くらいには入るようになった。来し方を振り返ってみると、波風も立ったし、翻訳家として作家として独り立ちするまでにはひとかたならぬ苦労もあった。だが、大好きなアメリカを題材にものを書き訳す仕事を続けてくることができた。総じて悪くなかったのではないか――そんな気持ちで振り返っておられるのではないか(といっても、私は『夏服を着た女たち』を読んだことがあるくらいで、Wikipediaやら常盤新平という人間の批評やら訃報に接しての読者の言葉(つまりブログ記事)を読んで、勝手に想像するだけですが)。30年という時間は、長くも短くもなく、ちょっと離れたところから振り返れるだけの距離を自分とのあいだにおける、ほどよい時間のように思います。
 自分の人生を肯定的に認められたからこその、どこか柔らかい暖かい雰囲気のある作品集のように思うのですが、私は甘すぎるでしょうか。

 いずれにせよ、翻訳者が主人公という小説はなかなか珍しいと思いますので、気が向かれた方は手にとってみていただければと思います。


 さて、ここからは(いつもの)「翻訳者目線で小説を読む」。

 主人公は「僕」なので、一人称で情景が語られるのですが、これって、視点を固定した表現の宝庫じゃないですか! そう意識して読むと「おお、こう書けばいいのか」という表現が随所にあって(もちろんそのまま使える場合の方が少ないでしょうが)。なんでも勉強になってしまうと読書も楽しくなくなりますが、これからはもう少しそうした部分にも注意して一人称小説を読んでみようと思いました。

 描写の端々に、翻訳者の翻訳に対する考え方が挟み込まれます。「僕」の語りや先輩翻訳家の言葉を通して語られる翻訳に対する姿勢は、今も昔もあまり変わらず、みな同じようなことを考えながら異なる時代を生きているのだなあと、しみじみ嬉しく思い、なんとなく安心してしまうのです。

***以下引用***

(「たった一つの単語をそうやって(=さまざまな辞書にあたって)調べるのかという「僕」の質問に対し)
「たった一つの単語だからですよ」
 吉田さんはいきおいこんで言った。僕はほっぺたをなぐられたような気がした。(P18「翻訳の名人」)

(原文と先輩翻訳家の訳文を勉強のために読みくらべていることが語られたあと)
 粗捜しをするつもりで他人の翻訳を読んだのでは、自分の翻訳の腕があがらないのを僕は経験から知っていた。むしろ、他人の翻訳のうまいところを盗むように心がけていた。(P55「線路ぎわの住人」)

(妻の沙知と古本屋店主が「僕」は内弁慶だという話をしたあとの店主の言葉)
「でも、きっとまもなくプロになりますよ、この人は。内気なかわり、ねばり強いから。福島正実さんでしたかね、翻訳家になる条件の一つは根気だって言ってましたよ」(P196「夜明けの道」)

 まだまだ引用したい箇所はありますが、あまり長くなるのも何ですので、このへんで。


『片隅の人たち』は、ほんやくWebzineさんの「翻訳者・通訳者が登場する小説、映画、マンガのリスト」という記事でも紹介されています。
https://note.com/hon_honyaku/n/n74f0e263bfac
2020. 12. 18  

 今年の秋は(当社比)よく頑張りました!
 仕事、ではなく、オンラインセミナーの運営やお手伝いですが。
 (オンラインセミナーの裏方というのは、実会場セミナーとまた違った緊張があります)

 というわけで、自分にご褒美をあげることにしました。いいよね? それくらい、いいよね?
 時節柄、自分へのクリスマスプレゼント、的な。
 といっても、行くところは決まっています。一万円を握りしめて(?)Amazonへ。
 
 色々悩みましたが、一万円をこんなふうに組み合わせてみました。

 『日本語の正しい表記と用語の辞典 第三版』(講談社校閲局変、講談社、本体1,500円)
 先日視聴したオンライン校閲講座(毎日新聞社校閲センター)で講師の方が仰っていたのですが、新聞社が出している用字用語の手引きやハンドブックは多々あれど、出版社が出しているこの種の辞典はこれ一冊なのだそうです。ということで(ちょうど書籍の仕事を終えたばかりでしたので)俄然興味が湧いて購入しました。まだパラパラとページをめくっただけですが、縦書き・横書きそれぞれの数字の書き方が実例とともに示されていて、縦書き初心者の私は、それだけでも「助かる~」と思ってしまいました。

 『ディープメディスン―AIで思いやりのある医療を』(エリック・トポル、中村祐輔監訳、柴田裕之訳、NTT出版、本体3,600円)
 米国で昨年出版されたばかりの書籍ですが、今年の5月に早くも翻訳版が出版されました! しかもハラリの『サピエンス全史』などでお馴染みの柴田裕之さんの翻訳で! もともと原書を読もうと思っていたのですが、友人二人(星野靖子・佐復純子)が翻訳協力(リサーチ)として関わっているということもあり、翻訳版の方を読むことにしました。訳者あとがきを読むと(←あとがきから読む人)、かなり厳しい納期の中で翻訳が進められた由。それぞれITと医療分野の翻訳に秀でたこの二人が翻訳協力として携わったのも頷けます(注の数も膨大です)。オーフリ医師の次作『When We Do Harm』にも本書(原書『Deep Medicine』)とTopol氏が登場するので、読むのが楽しみです。出版は5月末でしたが、奥付の表示は2刷になっていて、決して万人向けの内容ではない本書が増刷されていたことも嬉しい発見でした。

 『300点の写真とイラストで大図解 世界史』(ジェレミー・ブラック、藤崎衛監訳、下田明子訳、Newton Press、本体2,800円)
 訳者の下田さんは『若い読者のためのアメリカ史』(すばる舎)という本も翻訳(共訳)なさっていて、そちらにも心引かれたのですが、今回は11月末に出たばかりのこちらの書籍にしました。絵図や写真がとても美しくて、眺めているだけで、もう別世界に飛んでいけそう。こちらも楽しみな一冊です。

 『Compassionomics: The Revolutionary Scientific Evidence That Caring Makes a Difference』(Stephen Trzeciak, MD, Anthony Mazzarelli, MD、Kindle版1,104円)
 Compassionate Careについて書かれた一冊。ほしいものリストに入れていたのですが、たまたまKindle版をみたらリーズナブルなお値段だったので購入。洋書も溜まってきたので、読むのは少し先になるかも。

 ジツは私は今年がKindleデビューの年でした。
 今春、洋書の入手が困難になり(注文から到着まで2ヵ月強)、「洋書はKindleにしよう」と。これまで最低でも届くまで1週間を要した洋書が、Kindleであればワンクリックで手に入るようになりました――洋書に関していえば、Kindleはとても便利(個人的には紙の本の方が好きですが)。ただし、紙版の積ん読は、とりあえず目につくところに積んでおけば忘れることはありませんが、Kindleは、特に「セールなのでとりあえず買っておこう」と購入した本は、購入したことすら忘れてしまうこともあり、なかなか危険な文明の利器(もはや死語?)ではあります。


 自分へのプレゼント本の紹介はここまでですが、「今年心に残った言葉」について少し。

 つい先日まで、「ほんやくWebzine」さん(@honyaku_webzine)が、「これが響いた! 通翻訳、ことば、本 2020」というアンケートをとっていらっしゃいました(年末頃に結果を発表されるそうです)。
設問の中に「2020年に読んだ通翻訳、ことば、語学に関する本のうち、特に印象に残った1冊を選び、その理由をお聞かせください」というものがありました(専門書、学習書、新書、エッセイ、コミックなどジャンルは不問)。
 ジツは私そこでちょっと考え込んでしまって。通翻訳、ことば、語学などに関する本はそれなりに読んだと思うのですが、「強く印象に残った言葉」って思い出せなかったんですよね。唯一心に浮かんだ書籍とその理由を回答しておきましたが、そのことがちょっとショックでもありました。では、言葉に心を揺さぶられたことはなかったのかといえば、決してそんなことはなく。ただ、今年私を揺さぶった言葉はほとんどすべて何らかの形でコロナ禍に関連するものでした。自分は喜怒哀楽のほとんどをこの未曾有の感染症(とそれに関連する世情)に吸い取られていたのだなあと今さらのように実感したのでした。それは、自分でも気づかないうちに緊張した毎日を過ごしていたことのあかしなのかもしれません。
 まだしばらくこの状態が続くのでしょうが、来年は、もっと広くゆるくさまざまなものに喜怒哀楽を解放できる年になってほしいものです(自分のアンテナの立て方も考えた方がいいのかもね)。

ということで、特に心に残った文章を二つ。いずれも新聞記事を読んでツイートしたものをそのまま記載しておきます。

朝日新聞(3月12日朝刊)「欧州季評」(ブレイディみかこ)

1 本日の朝日新聞「欧州季評」にブレイディみかこさんが寄稿された文章は素晴らしかった。ウェブ版は有料記事なので、頑張って全体をまとめてみた。英国で中学校に通うご子息が「コロナを広めるな」と面と向かって言われたという。それをきっかけに、みかこさんは差別と偏見について考察された。(1/4)
2 差別の構造を説明する際よく用いられるという「『無知』を『恐れ』で焚きつければ『ヘイト』が抽出される」(「欧州季評」寄稿文より、以下「 」内は全て同じ)という比喩を引き「世界を真の危機に陥れるのは新型ウイルスではなく、それに対する『恐れ』のほうだろう」と考える。(2/4)
3 ご子息に心ない言葉を投げた同級生はあとで誤りにきたという。ご子息も、自分にも相手に話しても分かってもらえないだろうという偏見があったと言う。「人々は日常の中でむき出しの差別や偏見にぶつかり、自分の中にもそれがあることに気づき、これまで見えなかったものが見えるようになる」(3/4)
4 「知らないことに直面した時、人は間違う。だが、間違いに気づく時には、『無知』が少し減っている」このウイルス禍も自分たちを成長させる機会なのだと結論付ける。自分の無知は潔く認めそこから学ぼうとする姿勢を持ち続ける限り、人間は、世界は大丈夫という気持ちにさせてくれる力強い文章だ。(4/4)

朝日新聞(12月2日朝刊)「多事奏論」(編集委員・高橋純子)

1「そばにいる。見捨てない。これが、政治リーダーが発すべき何よりのメッセージだと私は思う」
12月2日付朝日新聞・多事奏論(編集委員・高橋純子さん)から (1/3)
2 現首相のぶらさがり会見を、「子どもたちに特段の思い入れがあるわけでは」なく他人事のように祝辞を述べる小学校の来賓あいさつにたとえたあとの言葉だ。そのとおりだと私も思う。このところ悶々としていた気持ちを代弁してくださったように感じた。(2/3)
3 政策とメッセージは布を織る縦糸と横糸、と高橋さんは続ける。「糸を吟味し、丁寧に織り上げられた布はあたたかく、寒さと不安に立ちすくんでしまった人たちに『大丈夫だ』という安心と希望をもたらし、再び歩き出す力を与えるはずだ」 どちらか一方だけでは布は織れないと思う。(3/3)
プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器和訳
循環器植込み系など好物
還暦を前に書籍翻訳メインにシフト中
(希望的観測)
『患者の話は医師にどう聞こえるのか』共訳
翻訳は楽しく苦しく難しい
記事は書きたいことを黙々と
セミナー聴講感想・翻訳・書籍紹介・独白など
(2021年10月現在)

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